| 氏名 | 生年月日 | 性別 | 血液型 |
| 館 正訓(たち まさくに) | 1966年3月5日(丙午!ひのえうま) | 男 | RH+B |
| 居住地 |
| 九州の北部、福岡県の玄海灘沿岸地域 |
| 肩書き |
| 自転車乗り(プロフェッショナルサイクリスト) |
| スピニングインストラクター |
| パーソナルトレーナー |
| アドベンチャーレーサー |
| 略歴(長いけど) |
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1966年(昭和41年)3月5日午前2時頃。福岡県糟屋郡古賀町(当時)に生まれる。生まれたのは隣町の宗像郡福間町、安永産婦人科らしい。3150gのまあ標準的な赤ん坊だったそうだ。 早生まれのためか成長が遅く、いつも前から二番目の生徒だった。 2年生のときの担任はいじめられっ子だと証言したらしい。本人に自覚は無かった。通学途中の川に夢中で石を投げていて、気がついたら2時間目が終わっていたことがある。高いところから落ちて、胸を強打すると呼吸が出来なくなることを知ったのはこの頃のことである。 3年生のとき、校内の剣道クラブに間違って入り人生の修行をやらされる。町の祭りの放生会(ほうじょうや)の奉納剣道大会でいつも出店に行っていて呼び出しに怒鳴られている奴だった。それを笑ってみていてくれる親達でもあった。放送委員になり帰りの放送を嬉々としてしているような奴だった。 乗馬に触れる機会があり、卒業の時に将来なりたいものは牧場主だと書いた。馬に乗って生活できると思っていたらしい。 中学校でも、相変わらず前から二番目だった。生徒会に立候補させられ、しょうがないので広報委員長になった。またまた、放送をしていたのだ。担任になった先生がとても嫌いで、この頃から学校の先生と言うものを尊敬しなくなった。 必修クラブでしかたなくゲートボール部に入り、地域の老人と試合をした。先方のカーボンファイバーのスティックを見て卑怯と言う言葉の意味を理解した。この頃、何になりたかったのかさっぱり記憶していない。 2年生の半ば頃、視力を落としメガネの生活に入る。この頃、カメラと自転車に出会っている。飛行機が好きで父親に借りたカメラで写真を撮っていた。しかし空港は遠く、電車賃は無かった。そこで仲間達と自転車で行ったのだ。辛かったが、大きな経験だったと思う。 そのうち世の中にはもっといい自転車があり風のように走ることが出来るのだと知った。いつか手に入れようと心に誓ったのだ。 いつのまにか中学を卒業し、運良く受かった公立高校に自作のランドナーで通学するようになった。なぜかここでも生徒会に立候補させられ、しょうがないので書記長に出たら当選してしまった。何も記録が残っていない生徒会だったと思う。 そういえば部活動は写真部だった。やっぱりしつこく飛行機の写真を撮っていたのだ。部長には面白くない奴だと思われていただろう。この頃は将来、飛行機に関係した仕事につきたいと思っていたらしい。視力が悪いから当然パイロットにはなれず、飛行機の整備士の専門学校を選ぼうとして、進路指導の先生が知識を持っておらず「でかい面すんな」と思った。 埼玉県所沢市の専門学校に入学するが、世間知らずだったことを痛感させられる1年半をすごし、とぼとぼと九州に逃げ帰る。この頃オートバイの免許を取得している。 友人に誘われて郵便局のアルバイトを始め、そいつに付き合いで外務試験を受けに行ったら僕が受かってしまった。同時に九州産業大学の夜学に受かっていたが、両立させることが出来ず学校を除籍されている。 |